ゲームプランナーの技術ブログ

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The Last of Us part2 をプレイして気づいたこと

クリアしたので書く。

【PS4】The Last of Us Part II 【CEROレーティング「Z」】

【PS4】The Last of Us Part II 【CEROレーティング「Z」】

  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: Video Game
 

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まず目立つのがグラフィックの進化だ。

 

荒廃した世界であることをうかがわせるあらゆるものの不潔さの表現が凄い。

トイレはきたないし、建物は壁が壊れているし、ゾンビ化の原因であるカビが広がったり、時には積もっており、みているだけでここには住みたくないと思わせる。

 

この不潔さが人間の心に余裕のなさだったり、世界がこうなってしまって幾年も立つことだったりを物語っている。「グラフィックの進化は、ゲームをおもしろくするのか?」みたいな議論があるが、この作品に限っていうと確実にあると言える。プレイヤーがこの世界から感じられること、ナラティブ(プレイヤーが自分でつくる物語)に深みを持たせている。

 

そして、その不潔さがレベルデザインにもいきている。

レベルデザインの都合上、窓やドアを開けないようさせる必要があるが、銃がある世界観で「フォトリアルな映像だと鍵がしまってあかない」のリアリティがなくなる。

バイオ7はこの問題を解決できていない場合が多かった。

 

本作は、家具が倒れたり老朽化すること、または、建物が崩れることにより、プレイヤーの行動を、きわめて自然な形で制限している。さらには、例の胞子が、豪雪地帯の雪の様につもり、開かずの扉をつくっている。胞子の蓄積は、レベルデザインに寄与し、かつゾンビが蔓延する世界になって幾年もたつことを実感させる非常に意味にあるアセットだった。

 

仲間のAIが非常に賢い点も見逃せない。すぐに死なないし、かといって無双して敵を倒すわけでもなく、棒立ちしているわけでもなく、いい塩梅でピンチになり手助けをしてくれる。人間らしい動きをしてくれるので、没入感を削ぐことがない。

 

※以下参照。私のプレイが下手すぎることはいったん目をつむって......CV杉田のキャラが援護している

youtu.be

 

そういった没入感を削がないための工夫として、HUDを極力排しているのもよかった。現実の世界には、HUDは存在しないので、現実に近づけるためには、なるべくHUDを排除した方がよい。

※HUDについて下記を参照のこと

sonykichi.hatenablog.com

その一方で、HUDがないことによる、デメリットを感じさせない工夫も徹底しているのも素晴らしい。

マップUI(ミニマップ)が表示されないので、迷いやすいんだが、一定以上迷うと仲間NPCだったりが、教えてくれたり、R3ボタンを押すように促し、目的地を注視させる。

 

そもそも迷わない様に、ランドマークを配置しているのも素晴らしい配慮だった。

要所でプレイヤーキャラクター(エリーやアビー)や、仲間NPCが、「あそこの大きなあのビルを目指せばいいのね」みたいなことを言ってくれるので、迷ったらそこをみて軌道修正ができる。

 

本作のゲームデザインを語るうえで避けられないことが、本作の開発スタジオが追求してきた、「ハリウッドのように、プレイヤーの興奮度を高める手法」である。

 

※以下にに詳細が書かれているので良ければ

sonykichi.hatenablog.com

 

アンチャーテッドでも有名な同スタジオは、プレイヤーに興奮を感じてもらうために、あえて緊張感をゆるめるフェイズを用意し、その後、ピンチ度が増していく高めていくことで、一気に緊張感を高めるという手法を確立しており、本作もでもそれが発揮されていた。

例えば、ガスマスクを取得するためにあるビルの部屋に入っていくフェーズがある。最初は敵がおらず安心して、捜索できるのですが、ガスマスクを入手した瞬間、突如、不穏なSEが流れ、敵が現れることを知らせる。目的を達成した安堵感から一点、一気に緊張感が高まる。

※以下の動画を参照

youtu.be

 

続いてストーリーについて論じたい。

ストーリーの評価を一言でいうと、ゲームが描けるストーリーとしては傑作だ。

 

全体を通して、主人公たちの行動と動機が常に一致おり整合的だった。ラストシーンを例に挙げて説明したい。あれほど憎かったアビーを、エリーが許すのは、自分がジョエルを慕っていた様に、アビーを慕う存在(スカーの少年)を目のあたりにしたからだと想像できる。アビーがエリーを許すのも、スカーの少年と過ごすうちに「ジョエルと同じ罪」を自らが犯したからだろう。

 

ストーリーそのものに説得力があるだけではなく、ゲームデザイン上のリスク(※)である主人公の交代がこのゲームのストーリーに深みを持たせる。

 

※主人公を変更してしまうと、それまで積み上げてきたキャラクターの成長だったり、アイテムだったりが取り上げられてしまうのでプレイヤーにストレスを与える

 

前半、前作の主人公であり、エリーの父代わりでもあるジョエルが殺されるわけだから復讐することはきわめて正しく、正当な行いであるように感じる。復讐ためには人を殺しまくってもまったく気にもとめることはない。

 

だが、後半、その目的が間違いだったのではないかという疑念を抱くようになり、終盤はそれが頂点に達する。アビーの父親(エリーにとってのジョエルと同じように大切な存在)が、ジョエルに殺されたことがわかるし、アビーの大切な仲間たちが、エリーに殺されてしまったことがわかるからだ。後半、アビーに感情移入しているため、エリーががやったこと(=プレイヤーが行ったこと)がとてつもない重い罪であるように感じられる。一種の罪悪感さえ感じてしまう。

 

なぜその様に感じるかというと、ゲームの特性、主人公を自分で動かせるという点にあるだろう。

 

元ジャンプ編集長の鳥島氏は、ゲームというメディアの強みを以下の様に語っている。

.....漫画やアニメで一番難しいのは主人公と読者を一体化させることだからね。キャラクターを立てて、主人公を自分だと錯覚させるために、漫画家は本当に沢山のテクニックを使うわけ。

 ところが、ゲームは動かした瞬間に主人公は自分になってしまう。漫画において最も習得が難しいノウハウを、あらかじめクリアできている。これが漫画やアニメと比較したときの、ゲームの凄まじさだよね。

引用元:https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima/3

 

操作するキャラ(プレイヤーキャラクター=PC)の変更という、ゲームというメディアの強みを活かした結果、ストーリーに強烈な説得力を持たせることに成功している。プレイヤーキャラクターになったアビーを、心から憎めるはずがない。そしてまた、アビーの仲間を殺したエリーが、正しいとも思えなくなってしまう。

ゲームの進行するほどに、プレイヤーの中で、自分の分身になったアビーとエリーそれぞれの感情が自分の中でぶつかり合う。

 

それ故に、とても後味の悪い、爽快感とは無縁の感覚がプレイヤーを襲う。

 

そのため、当然、ストーリーに賛否両論があるのは、致し方ない。どんな終わりかたでも、最悪な気分になることはさけられない。

 

ただ、間違いなく言えるのは、本作は重厚な人間ドラマをつくることに成功している。

とある映画脚本の書籍によると、ドラマとは葛藤らしい。相反する目的や感情がぶつかり合い、それを解決する過程にこそドラマがあるという。

 

本作は終盤、主人公は葛藤につぐ葛藤を襲う。そして、このゲームの前後半の構成により、プレイヤー自身も葛藤をエリー達以上に味わえるようになっている。なぜなら、アビーとエリーの両方がPCとなるため、両方のPCと「一体化」しているからだ。

 

アビーは、ジョエルが父を殺した理由を、子どもを守るために同胞を殺す経験を通して知ってしまう。一方、エリーは、アビーが、同行する少年にとって、ジョエルの様に大切な存在になっていることを知る。そして、プレイヤーそれを両方知っている。むしろ、2人の正反対の立場を操作してしまったプレイヤーの方が葛藤を体験できる。単に2人の事情を「知っている」のとはわけが違う。2人の事情を体験しているのだ。

 

ゲームというメディアの特性をフル活用することで、映画では味わえることができない感情をプレイヤーは味わうことができる。本作はゲームがつくれるストーリーとして1つの到達点に達している様に思う。

 

こういう賛否両論わかれるような作品を予算かけてつくる、ノーティーの胆力には驚かされる。

 

プレイヤーが感じる感情は、とても複雑であるのは間違いないが、心を動かすことがエンタメの評価軸であるとするなら、本作は傑作である。

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